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DIARY 風舞(ふわり)の写メ日記

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風舞(ふわり) の写メ日記

風舞(ふわり)
記念日


僕くらいの歳になって、日記つけてる人っているのかな。


女の人とかはけっこう書いてるかもしれないけど、継続していくってすごいよね。


へたしたら僕は、3日くらい前の晩のことも覚えてないこともある。

「何食ったっけ?」って。


その場その場で、思いっきり何かに夢中になってればいい。


大切なのは、いかに真剣になってたか、たくさん笑ったか、熱くなったか。


振り返ってみる必要なんてないって、ずっと思ってた。




冷めた考え方かもしれないけど、クリスマスやバレンタインデーやハロウィンを、誰かと祝いたいって思ったことがない。


周りの人が、何か言うきっかけみたいなもんだとしたら、逆に寂しい。


普段ちゃんとコミュニケーション取ってないから、必要になってくるのかもしれない。



自分の中では、誰かと過ごす日っていうより、季節を感じる1つのシーズンっていう感じ。




自分にとってのイベント事でも、何月何日だったかまでは忘れてることが多い。


でも、誰と一緒だったかっていうのは覚えてる。

その時の絵も音も鮮明に残ってる。



 


その中でも、誕生日だけは別物。


クリスマスやバレンタインデーとは違って、その人だけの特別な日って思ったら、こっちまでなんだか嬉しい気持ちになる。


「おめでとう」って言う人、言われる人が最高だと思うし、自分もその輪の中に居られることが嬉しいなって思う。




それは、その日がコミュニケーションのツールなんかじゃなくて、素直に「おめでとうございます」っていう気持ち。


「メリークリスマス」や「ハッピーバレンタイン」っていうテンションとは違って、生まれてきてくれて出会ってくれたことに、あらためて精一杯感謝を伝えたくなる日。




僕にとってのセラピストでの記念日っていうと、アキラさんから講習を教わった日。


自分の中で、はっきりと何かが始まった日。

その日からスイッチ・オンになった。


エスコート、施術を教えてもらいながら、「あー、本当に自分にできんのかな」って、不安もあったしどこか期待もあった。




それからもうすぐ4ヶ月が経とうとしていて、「いつのまにかこんなに過ぎてるじゃん」っていう気持ちと、逆に「まだまだ何も知らない新人だな」っていう気持ちと両方ある。


デビューしたあとも、僕自身は何も変わってない。


でもたった4ヶ月でさえ、節目みたいなものを、ある1日をきっかけに感じることは、そんなに悪い気分じゃない。



そう考えると〝記念日〟っていうのも意味があるのかなって、最近思ったりもしてる。



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「何月何日」よりも、「誰と、どこで」の方が


音、色、そして風景が残ってる様な気がします。


その人と出会えた日が、僕にとっての記念日です。

風舞(ふわり)
Yes or No


子どもっぽいって、そんなに悪いことなのかな。

大人っぽく振る舞うことが、そんなに偉いことなんだろうか。



格好つけて言いたいことも言えない大人よりも、

自分の気持ちに素直になって相手に伝えることのほうが、より人間らしく、自分の弱い部分を見せてる分、格好よく見える。




先日、友達夫婦の家に久しぶりに遊びに行ってきた。


前に遊びに来たときは、まだベビーベッドに寝てた赤ちゃんが、今は3歳の男の子。


で、僕が子どものお守りをする役に。


友達は模型を作るのが趣味なんだけど、車の模型を子どもが持ってきて壁にぶつけて「こわえちゃった」とか「たいやもとえちゃった」とか言ってる。


でも、その場にいた自分はなんのリズムの狂いもなかった。

子どもって、自分がヤだって思ったら、相手がどう思うかなんて気にしないで表現する。


よければ「うん」って首を縦に振って、嫌なら「ううん」って首を横に振る。


おもしろいことやれば「わーっ」って笑ってくれるし。


何も怖がってない。

リアクションがはっきりしてる分、こっちも怖くない。

これってすごいなって思った。



子どもと遊んでて再確認させられたのは、僕も自分が喜びたいっていうこと。


セラピストの仕事って、相手に喜んでもらうっていうことも確かにある。


でも、それだけじゃなくて、どんなことでも自分で楽しまなきゃって思う。


「喜ばせてあげた」じゃなくて「喜んでほしい」っていう姿勢。


その方がこっちも嬉しい気持ちになるし、一緒に喜べることがたくさん増えてくと思う。



「ガキじゃないんだから」っていう言葉があるけど、今言えることは、「ガキでいいじゃん」って思う。


そのくらい人にも自分にも素直になりたい。


僕自身、自分は強くない人間だと思ってるし、本当に気分が滅入ることだってある。


そういう時に気持ちを強く持とうとすると、つらいし苦しいことだって経験したこともある。


人は弱ってるとき、強くなんかなれないよ。


だからそんなときは、ただただ言えたらいいよね。


〝ヤだ〟っていう一言を。


不明.jpg


子どもっていいですよね。


「イヤイヤ」とか「ウン」が平気で出てきます。


大人って、けっこう怖がって、


簡単なことも余計に難しく考えがちです。


怖いかもしれないけど、


「イヤイヤ」を言えるといいですね。

風舞(ふわり)
世代


僕は今、35歳という人生の旅路にいる。


 

20代を終えた当時、30歳になることに対して、特別な感慨っていうのは全くなかった。



30歳も35歳も、きっとこの先の40歳も今までの延長に過ぎないわけだから。



その中でも〝同世代〟って、初対面でも不思議とすぐに打ち解けられたりする。



自分と比較したり、ライバル心を掻き立てられる対象では決してなくて、でもどこか気になってて、会えばすごく共感できるっていう存在。



やっぱり子どものころ、同じテレビ番組を見たり、同じ音楽を聴いたり、同じような遊びをしてきた影響ってすごくでかい。


笑いのツボも似てるし。


でもいちばん共感できるのは、恋愛の仕方とか、異性を見る目みたいなもの。


これって誰もが通る道だからなのかもしれない。


僕が初めて彼女ができた頃なんて、つきあいのツールも、今ではみんな当たり前のように持ってるケータイなんかなかった。


ポケベル持っただけでドキドキした。

それで気持ちを伝えあってた。


そういう経験を一緒にしてきた人たちって、やっぱり同じとまでいえなくても、似てる部分は多いのかもしれない。




20代の頃、同い年くらいのヤツらが集まると、「このまま歳を重ねていっていいのかな?」っていうのが合言葉みたいになってた時期があった。


僕自身も、そういう気持ちがなかったかって言ったら嘘になる。


こういうとまどいってガソリンみたいなもので、燃料みたいなものだと思うし、危険物にもなると思う。


それは、ガソリンを抱えて走ってる、ひとりひとりの意識にかかってる。


「オレ、こんなんでいいのかよー」って後ろ向きにとらえたら、限りなく自分をおとしめて、へたしたら自爆するくらいのものになってしまうかもしれない。


でも、常に高いところに目線を据えていれば、「じゃ、こんなこともできるはず」っていうように、自分をもっと前に飛躍させるためにがんばり続ける原動力にもなる。


そういう意識は昔も今も変わらない。



今、30代を折り返していく世代というのは、仕事でもプライベートでも、これから自分たちで新しいことをどんどんやっていこうと思ってるということ。


同時に、今までやってきたことを継続していくことの大切さも知ってる。


常に「Let’s」の姿勢でいて、そのあとの動詞はその人それぞれ決めていくんだろう。

 



もう一度20代をやらせてあげるって言われたとしても、答えはノーサンキュー。

20代のうちにやっておけばよかった」なんて悔いは、なんにもない。




僕自身は、世代ってものに、センチメンタルな感情は一切ない。


古い友達に会いたくなったり、同窓会に出たいと思ったりすることもない。


だからなのかそこにリンクするのかはわからないけど、他の世代に対しても、壁を感じない。


10代でも50代でも、友達っていえる人はたくさんいる。


自分が凄いと感じる人って、年上でも年下でもリスペクトしてる。


その凄さの方が先に目に飛び込んでくる。


あとから「あ、そんなんだ」って年齢を知ることはあるけど。


それに今自分がやってる仕事って、同世代はもちろん、世代というものを超えたところで、一緒に楽しんだり笑ったりドキドキしたりして、楽しい時間をつくること。


共感できるものさえあれば、実際の年齢なんて関係なく、そこには〝今〟っていうその時間の、1つの世代が生まれるんだと思う。


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風舞(ふわり)
ライバル


ぎっしり並んだたくさんの数のお店が、11個看板出して、競い合ってるんだなって、大須商店街を歩きながら思った。


それぞれが必死になってる。

今僕も含めて、誰もがこういう中で生きてるんだよな。




今、ライバルは誰だろう。

男も女も、年上も年下もいる。

一緒に仕事をしたいと思える人や、それぞれの立場でいい仕事をしてる友達...


その中でもサンライズのメンバーはいちばん身近なライバルかもしれない。




先日、サンライズのAkiくんの紹介とカラオケキャスに急遽参加させてもらった。


初めて会うサンライズのメンバーもいて、90分という白紙の時間を6人で組み立てていく。


それには、全員が自分の話を先立ってしていってしまったら〝場、そのもの〟が成り立たなくなっていく。

見てくれてる視聴者の方の参加にもかなり助けられてるし。




ご一緒させてもらったメンバーは、上手く司会進行してキャスを進めてくれる、場が沈黙しないように盛り上げてくれる、常に空気を読みながらメンバーに話を振ってくれる、視聴者の方のコメントを常に意識してくれる。


自分は、視聴者のような立ち位置でその場にいてしまったことは反省すべき点ではあるものの、各々の良い部分をリアルタイムでたくさん発見できたことは嬉しかったし、学ばせてもらった。




ライバルっていうと、〝競争相手〟って意味に解釈されがちだけど、僕にとってのライバルは、勝ち負けなんて考えたくない人たちのこと。


その人たちの魅力。

それは、その人の持ってる才能だったり、技術だったりするんだけど、それを見つけられた自分自身が嬉しい。


だからライバルっていうのは、自分にとって決して敵じゃない。



敵って打ち負かして潰すものだと思う。

ライバルは共同作業もできる人。

ある意味、仲がいいって言ってもいい。

同じフィールドで闘いながら、お互いを認め合ってる。

友達っていう言葉では納まりきれないけど、確かに〝友達的なもの〟がある関係。




考えてみたら、僕にはそういう人が周りにたくさんいる。

幸せなことだと思う。


そういう人たちの存在が、自分自身を伸ばすことにも繋がってると思うし。




ライバルっていう意味で、目に見えないライバルを例えるなら、クサい言葉だけど自分自身が永遠のライバルなのかもしれない。

それまでの自分を認めて、なおかつそれを超えていくっていう意味で。




どんなに優れたアーティストでも、曲や絵をつくるうえで、新作はどんどんできても、以前よりもいいものをつくっていこうとしたら、それはすごく難しいこと。

つくることが、一種の義務みたいになったらつまらないと思う。


そこには全然気持ちが入ってないような感じがするし、受け手側とのコミュニケーションも取れなくなるだろうし。




自分の中で自分を評価して、それに応えていくっていうのは、大変なことだと思う。


すごく重荷に感じることもある。


僕の場合だと、ちょっと身軽になりたくなったらスポーツセンターや体育館のコートに行って、自分を開放することもできてる。


そのコートでは、またバスケのいいライバルたちが待ってる。



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今も、今までも、


自分の周りには〝ライバル〟がいます。


だから、今も、今までも、


僕はすごく幸せです。


なぜなら、魅力ある人達が


いつも身近にいてくれるから。

風舞(ふわり)
女と男


女性の好みを聞かれたとき、それは自分にとって超難問だと思ってる。


 


女優さんにしても、思い返せば好きな顔どころか、系統からコロコロ変わってるし、次から次へと新しい人が出てくる分、「タイプ」=「好き」にはならない。




性格だって、完璧な人はいないからこそ、誰だって粗を探せば埃はでる。

その埃ですら好きになれる人を、好みの人って事なんだろう。

だから、「好きになった人が好き」っていう答えは、とても理解できる。




昔からカッコいい人が好きだった。

それはずっと変わらない。

男の人も、女の人も。

女の人も、カッコよく見えるのって絶対見た目だけじゃない。




カッコいいと思う人は、その人が〝〜ing〟の状態にいる時に、いちばん輝いて見えるっていうこと。

なかなか見ることはできないけど、仕事をしている姿を想像するとドキドキするし、もし見ることができたらものすごく魅力を感じるんだと思う。



だからといって女の人のカッコいい姿を見て「やりてえな」とは思わない。

そういう意味での好きな人って、それだけじゃないから。


あえてセックスアピールする必要のない人。

ボディラインを強調する服を着て胸元を開けたり、短いスカートで足組み直したりして、お色気なんか出さなくていい。


逆にヘタしたら、すり減ったコンバースに、色落ちしたGパン履いてるほうがセクシーかもしれない。




男と女っていう性別の違いから一歩踏み出せるものは何かって言ったら、やっぱりその人が持ってるプラスアルファなんだと思う。


だから、もし自分にパートナーができて、仕事に夢中になってこっちをあんまり向かなくなったとしても、それはそれで、その人の一面として受け止めようって気持ちにもなれる。




男って、女性が存在すると、急に態度が違ってきたりする。男だけでいるときと、そこに女性が入ってる時じゃ、なんらかの変化が生まれてる。


もちろん、男だけで、気楽なのが心地いいときもある。

でもやっぱり女の人には、男の力を出させてくれる何かがある。


だから僕は、自分が男に生まれたこと、半分は幸せに思ってるけど、あとの半分は悔しいって感じる。


男に生まれたからこそ、できた経験もたくさんある。

でも、「女っていうのもありだったかな」っていう気もどっかでしてる。

と言いつつ、街歩いてれば、女に目がいく野郎体質っていうのが現実なんだけど。




女って、全部ひっくるめて、やっぱりすごいなって思う。


僕にとっては、いつも驚きとか尊敬とか、いろんな気持ちをいだかせてくれる存在。


男としては、そこからいつもでっかいパワーをもらってる。



よくテレビドラマなんかで「あたしって何?あなたにとって、空気みたいな存在なの?」っていうセリフがあるけど、それって実は最高に幸せな関係だと思う。


お互いを、空気みたいな存在にとらえることができたらいいよね。




その反面、その考え方は男よがりでもあるとも思う。


女性は、ちゃんと言葉でも示してほしいって思うのかなって感じる時も多々ある。


「言わなくてもわかるだろ」は男のエゴで、「ちゃんと今の気持ちを伝えてよ」は、女の本能。


一緒にいて慣れてくると、エゴで物事を発信してしまうことから男女間の拗れみたいなものを生んでしまうのかも。



そんな時、男側も〝〜ing〟の気持ちを伝えながらも空気のような存在でいられつづけたら、ふとした時にお互いの間に笑顔が増えそうだなって思う。


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〝男〟にとって、


〝女〟はいちばん力を発揮させる存在であり、


そうさせてくれる場所だと思います。


だから、これからもずっと...




画像は拾い画です。

風舞(ふわり)

暗い書き出しになっちゃうけど、411日はじいちゃんの命日。



じいちゃんが亡くなったときは、僕は小学生だった。

火葬で焼かれてしまったじいちゃんを見ながら、気がつくと泣いていた。


「もう一緒に遊べない」とか「一緒に過ごせない」って考えると、たまらなく悔しかった。




その後、後を追うように今度は、ばあちゃんが亡くなった。


死んだことに対する悲しさよりも、悔しさのほうがでかかった。


ひねくれてるかもしれないけど、悲しいっていう言葉は、その時の気持ちを表現するには綺麗すぎる感じがした。




普段はあんまり泣くことはなかった。

泣くと親父にひっぱたかれたから。


それでまた泣くと、今度は「泣きやめ!」って、ひっぱたかれる。


親父の口ぐせは「男だろ」「男のくせに」「男だったら」。

「なんだよ、男って。どこが女と違うんだよ」って思いながら、「泣かない方がいいのかな」って、最終的には涙をこらえるようになっていった。




もちろん感動して涙を流すことはたくさんあったけどね。


中学の時なんて、バスケの試合では勝っても負けても泣いてたし、今では全く見なくなったドラマなんかでもしょっちゅう泣いてたし。




女の人の涙は、別物だと思う。

解けない試験問題みたいもの。


国語、算数、理科、社会っていうのと一緒に、〝女〟っていう科目があるとしたら、通知表で5はもらえないと思う。

3いけたらすごくいい方かもしれないし、ヘタしたら赤点かも。


女の人の涙は、その中でも〝超難問〟。


泣いてる直接的な理由はわかっても、本当の理由は、ちゃんとマルがもらえるような解答は出せる自信がない。


セラピストとして、ちゃんと5を取りにいくべきなんだろうし、察知能力は身につけなきゃいけないんだろうけど、わかったフリだけはしたくない。


その涙に対して、失礼になってしまうような気がするから。




最近は、ドキュメンタリー番組を見て、ウルッてくることが多くなった。

自分がのめり込める対象だと簡単に涙が出てくる。

人前では、泣くことってまずないけど。

どこかで虚勢を張ってる自分がいるんだろうな。



でも、友達の前では涙も見せられる。

自分の涙が〝ハプニング〟とか〝ネタ〟っていうふうに受け取られない人たちの前では、素直になれるのかもしれない。


そんな時は、自分だけじゃなくて、そいつらも一緒に泣いてることが多い。





泣ける人って、本当は強い人なんじゃないかなって最近よく思う。


涙を流せるだけのものを持ってるっていう意味で。



不明.jpg



〝血も涙もない〟という言葉がありますが、

血も涙も、どちらも絶対に欠かせないものです。

消化器じゃないけど、自分の中で火事が起きたら、その時は、涙で消すことができると思います。

風舞(ふわり)
自立




まだ学生と呼ばれる時期にいた頃、親に言われたことのひとつに、「学生期間が終わったらちゃんと自立しなさい」っていう言葉がある。




もちろん自立という言葉はそれまでにも聞いたこともあるし、〝自分で立つ〟って書くことから、なんとなく自立というものの輪郭は見えてたけれど、意味に関しては「まだまだ学生生活は長いし、大人になってからでいいだろ」くらいに思ってて、考えたこともなかった。



だって学生の自分から見た大人は、嫌でも大変な経験を経て、スーツ姿にネクタイを締めてビジネスバッグを持ち、想像もつかないような難しい仕事をしている。


大人になったら誰しもが皆、自動的に自立していくもんだと思ってたから。




じゃあ大人になった今、自立に対して振り返ってみてどうだろう。



自立という言葉は、使い方によっては相手を見下すような言葉にも感じる。



言う側が優位な立ち位置にいて、相手の内面や行動に欠点を感じた時に「自立しなよ」なんて言う場面に直面したこともある。




親や大人が、子どもに対して言う〝自立〟とはわけが違う。




自立という言葉そのものに対して具体性もないし、言う側が物事を解決するのが面倒で、〝臭い物に蓋をしている〟だけのようにも感じられる。




「自立しなよ」じゃなくて、もっと具体的な説明でディスカッションする方が、ちゃんと相手に伝わる気がするし、相手のことをおもっての発信になるんじゃないかなって思う。




自立に関してネットで検索すると、経済面や精神面、身体的だったり仕事など、自立といっても様々なシーンでの自立があり、自立した大人の特徴には、「自分の現状を理解する、自分の行動に責任を持つ、他人の気持ちを考える。」

主にこの3つが挙げられていた記事を見つけた。



 


どれくらいの人が自立できてるんだろう。



少なくとも自分は、まだまだ自立できてないし、もしかしたら一生かけても自立できるかどうかすらわからない。




自分の現状を理解しているつもりにはなれても、やっぱり詰めが甘くミスすることもあるし、自分の行動に責任を取るにも、「行動を間違えちゃった時にはこういう責任の取り方をするんだ」って決めて行動に移すことばかりじゃない。


自分の場合は、とにかくまず行動に移してみることの方が多いから。





他人の気持ちを考えるってことについては、「なんであんな言い方しちゃったんだろう」とか、「あの時、ああすればよかったな」って反省することもたくさんある。




今でもミスをしながら反省をして、自立することを目指して学習途中なんだなって、ネット検索をしながら痛感させられた。




ただ、反省することによって同じミスを何度も繰り返さないようにはしているし、同じように悩んでる人に対して、自分がミスしたことや反省した経験を伝えられたら、自分にとっても再確認する機会になる。  

自分もアドバイスをもらうことはたくさんあるし。




そう考えたら、1人で生きていける人なんていないし、100%自立している人はそうはいないんじゃないかな。




ミスや反省って言葉にすると、ものすごく背筋が伸びる生活に感じるけど、普段ストレスみたいなものを溜めているって感じは全然ない。




でもしばらくすると、「あ、どこか行きたいな」っていう欲求は生まれてくるけど。


 


「その場所が好き」って思えるのは、たいてい自分にとって、そのフィールドにいる人が好きってこと。


相談したら求めていた答えが返ってくる人や、何も気を使わない人。

だから素の自分のままで深くひと息つける。



そんな場所があるって、すごく心強いことだと思う。



自立することに捉われちゃうよりも、ちゃんとそういう場所を見つけておくことの方が、なんだか生活の中に笑顔が増えそうです。



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「はい、息吸ってー、吐いてー。」


〝ため息〟じゃなくて〝深呼吸〟を一緒に!


しっかり深呼吸ができる場所があると、


〝自立〟というものに近づいていける。


そんな気がします。

風舞(ふわり)
触れる










先日、時間があったので大阪の西成あいりん地区に行ってみた。



最初に目につくのは、あちこちにある自動販売機とその値段。




あいりん地区中心部に近づいてくにつれ、どんどん値段が下がっていき、最安値は缶コーヒー30円。

ほとんどが50円以下で売られていることに、同じ日本でここまで物価が違うことに衝撃を受けた。





道行く人たちの中には、まだ午後2時なのにワンカップのお酒を片手に、陽気に通り過ぎていく人もいれば、仲間内で楽しそうに談笑してる人たちもいたり、歌いながら話しかけてくるおじちゃんまで。




カラオケ居酒屋では、おもてまで演歌が聞こえてくるし、その店の前では泥酔して寝込んでいる高齢男性の姿もある。





更に歩いていくと、公園にはホームレスの方々のテントがいくつか設営されていた。




世の中には、生きることや人付き合いが苦手な人たちもいて、そういう人たちを簡単には見捨てない街のようにも見えるし、そう思えたら、実はここで暮らしている人たちの心はものすごく暖かいのかな。




ここはきっと居場所がなくなった人たちや、ここにしか居場所がない人たち

行き場を失った人誰でも受け入れる街。




経済的に大変な人だったりとか

生きるのがその日、本当に大変な人だったりとか

いろんな事情で仕事ができなくなった人とか

家族を失った人とか

ここに来なければいけなくなった人とか


人それぞれきっといろんな過去があり、ここに流れ着いた人たちなんだと思う。




仲間意識が強く、貧しくても楽しく懸命に生きていく姿は、当たり前に自分の周りにある幸せに対して改めて感謝と勇気をもらえた気もする。




お金がなくても人情味に溢れた環境で、おもしろおかしく日々を生きてる人もいれば、ある程度の生活水準を約束されながらも、日々ノルマに追われる社会で生き抜く人たち。




幸せの価値観は人それぞれ違うし、どちらにも良い部分、悪い部分はあるものの、「幸福度指数」みたいなもので測ったらどちらが高いんだろう...




時間もお金も手にした富裕層と呼ばれる人たちは、暇つぶしにリスクを犯した危険な橋を渡りたくなるっていうことも聞いたことがある。




世間体として良いリスクの話しは、ある会社の前社長は、民間人ながら宇宙に飛び立ったりすることも、すごいことではある一方でリスクも伴うだろうし、悪いリスクの話しだと、富裕層がドラッグなどの犯罪に手を染めたりもすることもある。





あいりん地区っていうのはいろんな境遇の人らが来てそれを受け入れた街。



また行く機会があったら、次は夜に行って飲み屋に立ち寄ってみることも、また別の角度から見ることで、この地区の違った顔を発見することができるのかな。



その人たちにとっては僕は他所ものだから罵声を浴びるかもしれないし、恐喝もあるかもしれないし...



それも触れてみなきゃわからない。




不明.jpg




結局は


触れないと、感じられない。


触れないと、理解できない。


触れないと、思いやれない。


やっぱ必要なんだな。


触れ合うって。

風舞(ふわり)
学校


前回と今回の日記の写真は、僕の母校の写真ですが、この仕事をしていなかったら日記なんて書いてなかったし、きっと母校に立ち寄る機会もなかった。




時間にしてみたら15分くらいしか居なかったけど、当時の色々な記憶が蘇った。




校庭だったり部室だったり正門も、当時のまま変わらない景色を見てると、なんだか甘酸っぱい気持ちになる。




でも、あの頃に戻りたいと思うことは全くなくて、感謝の気持ちでたくさん。

あの頃の友達や人間関係だったり、遊んできたことが今の自分を形づくっているわけだし、人生の礎になってる。




「もう一回人生をいついつからやり直せたら、いつがいい?」なんて、仲間うちで話題になることもあるけど、同じ親の元、同じ友達と同じ遊びをしてたいし、未来を見たいとも思わない。




それだけ〝今〟が充実してるってことなんだろうし、今日まで自分の礎を築いてくれた仲間や出会ってくれた人たちにも僕は恵まれてきたなって学舎を見つめながら振り返ってた。




僕は高校を3校経てきてる。



1つ目の高校は、バスケのスポーツ特待で入学したんだけど、校則の厳しかった学校だった。


自由奔放に生きていきたかった僕は、大人に歯向かうことがなぜか正義という錯覚に駆られていた時期で、生活指導の先生とぶつかり1ヶ月経たないうちに部活も辞めてしまいそのまま退学した。




2つ目の高校は定時制だった。

全日制の学校とは違い、生徒の年齢もバラバラで、既に社会に出ている大人たちとも同じ教室で授業を受けた。 


その大人たちから、言葉にするのは難しいけど、当時の自分にとっては良い刺激や意見をもらえたのは確かだったと思う。



定時制の高校でもバスケ部に入部したけど、強い学校でやりたいっていう想いはあったので、3年の途中で退学し、愛知県の定時制で当時バスケが1番強かった高校に翌年入学した。




中学でバスケに出会って、高校でバスケによって転々とした学生生活だったけど、3つも通わせてもらった高校生活だからこそ、とにかく卒業したいと思っていたから、勉強は単位を落とさないようにだけ頑張ってた。




点数ほしさに、「なんでそんなことやるの?」ってことまでした。

テストの日に、カンニングペーパー作ったり、人よりも早く学校に行って、テストに出そうなことを、シャープペンで机に全部書いとく。

必死に書いたのに、休みが1人いて、席を1つづつ詰められちゃって...




周りで答案見せ合って、同じところみんなで間違えて、呼び出されたことも懐かしい思い出。




今になって、「あの頃、勉強しとけばよかったな」なんて思うことはない。

学校で勉強したことなんて、全然覚えてないし。

学生時代、通知表でオール5取っても、大人になって「オレ、オール5でした」って言う人もいないしね。



成績良かった人が、今に活かされてる人って、自分の周りでは見受けられない。




逆に他が1でも、花マルの5が1つあればいいと思う。

5を出せるものに関しては、僕もハンパじゃない気持ちでやってきたと思ってる。




友達だって、相手に無い5を、どちらか一方が持っていれば、補い合える。




デコボコしているほうが、2つの面を合わせた時に、しっかり接するっていうし。




学校やそこでする勉強が、全く不必要って言うと問題かもしれない。




でも、大人になってみたら、それほど重要ではないってことはわかった。




それより大事なのは、自分のやることや言うことに対して自信を持てること、責任をとれることだと思う。




大人たちは、そういうことを経験しているのに、なぜか飽きもせず子どもたちに「勉強しろ」って言い続けてる。




テストの点数よりも、その横にある自分の名前を大切にできたら素敵だなって、今になって思えます。



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風舞(ふわり)
学ぶ






〝学ぶ〟って字面としては昔っから嫌いでした




ただ座って提供される方程式や知識を詰め込むみたいで

 


実際、学生時代はつらくてしょうがなかった




授業でやったことなんて、今なんにも頭に入ってない



でも、それに反比例して輝く時間も確かにあったんだけど




クラスメイトや好きな女の子、部活の存在に支えられてた




今思えば、学生服着ていられる時間って特権だよね



社会に出たら、個性で勝負するしかなくなるから。



そういった意味では、学校で学ぶべき学問を通過してきちゃった自分としては、人に教える立場になったときに自信もない



だから一緒に悩みながら、自分自身も再挑戦してる姿を見せるしかないのかなって思う。




世間ではこれから入学、進学を控えている人もいれば、就職、転職で新しい世界にチャレンジする人もいる時期



そういった意味では、春って何か新しいものを受け入れやすい体が染み付いている時期なのかも



気持ちの入れ替えというか、新しい風を自分に送り込むっていった意味でも




それはもちろん、趣味でもいいわけだし




僕はこの機会にずっと苦手にしてた英会話を、少しずつ取り入れてみようと思う




今は渡航できないけど、海外旅行が大好きなのでコロナが完全に世界から収束する日がきたら、すぐにでもバックパックしたい




その時に現地の人たちと日常会話くらいはできるようになってたら、新しい発見もできると思うし、何より今のバスケチームのメンバーと会話ができたら、チームとしてのプレイの幅も広がるから。




何かを学ぼうとする時、最初のキッカケはその対象についての愛着を持つことだと思う




根っこにその気持ちがあれば、学ぶ行為自体を楽しめる



それからどんどん好きになって興味を深めていくことで、その根っこに養分を与えることもできる。



学ぶ=learnって、まだ与えられるだけのイメージ。



そこからstudyに進むことができたら、自分でさらに深く発掘していくような感じになってくる




そんな気持ちを注げる対象をこれからもたくさん見つけていきたい。



不明.jpg


只今、僕も新学期


風舞として〝新しい何か〟を学べるチャンスを頂いてます


この先、どんな自分になれるかは、未知。


その部分をはっきり知るには


学ぶしかないんだろうなぁ。


やる時は、やる‼︎



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